親父、母さんへ

こうやって手紙を書くのは6年ぶりやんな。六年前、留置所で絶望感に浸りながら毎日のように二人に手紙を書いていたのを覚えているよ。

あの時は、ごめん。いや、あの時からずっとごめん、って言った方がいいと思う。

6年前のあの日、いきなり俺がいなくなって驚いたやんな。

逮捕された日は、母さんの乳がんの手術後数日しかたっていない時だったよね。

入院していて、身体を動かすのもしんどい母さんを前の日と同じようにお見舞いに行こうと家を出たときに、待ち構えていた刑事さんに取り囲まれて逮捕されたのが忘れられへんよ。

あの時思ったんよね、「何で、今!」って。

何で、家族が一番しんどくて一番助けがいる時に、何で今こんなことが起こるねん、って自分勝手に思っていたよ。全部、自分のせいなのに。

家宅捜索が行われている時、刑事さんが特別に一度だけ電話をすることを許してくれて、「電話をするならこの状況を説明して。しばらく連絡つかなくなるから親は心配するから、必ず説明して」って言ってくれてたんよ。

けど、どうしても言えなかった。

状況を甘くみていたわけじゃないんよ。10人以上の刑事さんが自分の部屋をひっくり返してるんやから、甘くなんて見れない。

ただ、最後までいい息子でいたくて、もうすぐに壊れるって分かっている幻想に少しでも縋りつきたくて、どうしても言えんかってん。

電話を切った時、刑事さんが「何で・・・」って悲しそうに言ったのを覚えてる。

俺も、馬鹿な自分に向かって同じことを心の中で言ってたよ。

それからは、遠方の留置所に行くために手錠をかけられて新幹線の中を移動して他の乗客の好奇の視線に晒されたり、緊張がピークに達して38℃以上の熱が出たりしたけど、何よりも、親父と母さんに知られないようにするにはどうすればいいのか、しか考えてなかった。

覚せい剤使用疑いとかそんなのどうでもよくて、二人にどう思われるのか、それだけが怖かった。

毎日手紙書いたよね。

何度も謝った。自分のやったことを反省しているとも書いたけど、その時は、覚せい剤を使っていたことを反省してたんじゃなくて、二人から幻滅されることが怖くて聞こえのいい言葉を並べていた。

それでも、二人も毎日のように返事をくれて、手紙の中で「今回のことがあなたにとってきっと何かの形で実を結ぶと信じています」と書いてくれているのを読んだとき、自分の浅ましさに嫌気が差したのを覚えてるよ。

あぁ、こんな事になっても俺は二人の人の好さや優しさをあてにして、自分が責められないように誘導している、って。

あの時は必死だったから、なんて言葉は何の意味もない。俺は人の優しさや思いやりを利用するような、浅ましい人間なんだと痛感したよ。

それでも、この状況を乗り切れるならいいと思ってた。

親父が面会に来てくれた時、面会室のガラス越しに姿が見えた時、初めて泣いた。

何の涙か分からなかったけど、ただただ泣いて、ごめんなさいって謝った。

「あほやなぁ、もう今回だけやからな」とそれだけ言って、「大丈夫やぞ、大丈夫や」って言ってくれた時、また泣いた。


それなのに、留置所を出所してから、俺はまた親父の優しさに甘えてひどいことを言ったよね。

自分が覚せい剤を使っていたことを全て幼少期からの家族の不和のせいにして、親父と母さんのせいにして、責められることから逃げるための言い訳を並べて。

最後に、親父が「そんなに俺のことが嫌いか・・・」って悲しそうに言って自分の部屋に入っていった時、自分は何をしているんだと我に返ったよ。

心の中でごめんって言って、親父をそんな気持ちにさせてしまった自分をまた嫌いになった。

あの背中は、今でも忘れられない。本当に、ごめん。

親父も母さんも、こんな思いをしなくていいはずなのに、俺のせいで悲しんで、泣かせて、

何て言って謝ったらいいのかも思いつかない。

それからは毎日、覚せい剤のことを話に出すこともできない、謝ることもできない、ただ、二人の悲しみとまた俺が使うんじゃないかと思っている怯えだけが伝わってきていたよ。

俺も、家にいても居場所が無くて、笑顔を作るのもしんどくなっていってん。

だから、家にいれなかった。

二人は腫れ物に触れるかのように俺に接していて、俺はそれまでと同じように笑顔を作ってもどうしても白々しいものになってしまって。

だから家を出たけど、そこから大変だった。


薬物との付き合いは、本当に大変。これは、言葉では表せられない。

苦しさから逃げるために覚せい剤っていう助け船を見つけて一時は安心したんよ。

けどその、苦しさからから逃げることができるというのは見せかけの避難所だった。

罠にはまったことに気付いた時には、仲間と一緒に出口を塞がれた避難所に閉じ込められて、頭上から水を注ぎ入れられている感覚。

皆で生き延びるために足場を高くしていって溺れないようにするけど、力尽きた仲間から溺れていって、それを助けることもできずにただ見ているしかない。

友達が死んでも、薬物関係の友達と言って葬式にも行くわけにもいかず、線香を上げることすらできない。

溺れていくのを助けることもできずに見ていることしかできなかった悲しさと、絶望の中で死んでいった友達の気持ちを想像して落ち込み、次は自分かもしれないという恐怖に囚われる。

避難できたと安心したら、そこはさらに地獄のような世界だったよ。


留置所を出所した後、家族で夜通し話して気まずい思いをしてからも、やっぱり薬物を使用したいという気持ちは完全には無くせへんねん。

使いたいし、使う前の気持ちに戻れるのなら戻りたい。

けど、戻れないし、使うわけにもいかない。

堂々巡りの毎日を過ごしているけど、二人をこれ以上傷つけたくないって気持ちも本当の気持ちやねん。

だから、今は形だけの笑顔かもしれないけど、いつかきっと薬物のことを笑い話にできるようにするから、その時には一緒にそんなこともあったねと笑いあってくれたら嬉しいよ。

あの出所してからの話し合いの晩、薬物を使っていたことを二人のせいにしてごめんなさい。

こんな家に生まれて育ったから、逃げるために薬物を使うしかなかった、あんたらのせいだ、なんて言ってごめんなさい。

二人にはもう何も期待していない、好きでも嫌いでもないなんて言ってごめんなさい。

今はまだ言えないけど、いつかこれを乗り越えることができたら、ごめんなさい、と、二人のことが大好きです、って言いたいって思っています。

それまで、頑張ります。

本当に、二人のことが大好きです。こんな息子で、ごめんなさい。